フミヱ記念援助会設立当時の思い出

副理事長   

 

理事長と私は高校の同窓同期生である。二人とも早くに父親を亡くし、母親の手で育てられた家庭環境であった。私は無神論者だが、中学はミッションスク-ルだった。理事長はカトリック信者だ。私の中学で使った聖書、讃美歌は、カトリックとはまるで違う。しかし、高校卒業後理事長に誘われてミサに参加したり、理事長が入っていた聖歌隊グル-プに参加したり、何よりも、赤ちゃんの洗礼、結婚式、葬儀等に出席し、カトリックの行事に参加できたのは、我が人生にとっても非常に役立っている。

高校時代は生活が苦しく、昼間大学に進学するのは難しく、昼間は就職して夜間大学を選択せざるを得なかったのも共通であった。就職先をどこに選ぶか、丁度その頃、神奈川県庁と横浜市役所が公開公募試験を始めたばかりで、お互いタイミング良く受験し、私は県庁、理事長は横浜市職員として合格した。以来私は人事委員会事務局勤務が長く、理事長は病院勤務が長かった。この間理事長は、病院改築と病床増による看護師不足の問題、医療職の問題等、病院特有の苦労が多かったと思う。 

時が過ぎお互い無事勤務を卒業してからである。ある時、「大橋、実は叔母が社会に役立つものに使うなら、持っている資産の一部を使ってもいい、と言っている。額は3,000万円だ。どう使うか君も考えてくれよ。」ということだった。

二人で種々アイデアを出し合った。その中で、大学入学後の授業料については日本育英会奨学金制度等充実したものがあったが、一時に多額のお金が必要な入学金は、助成するシステムが確立していなかった。(現在でも確立されていない)

そうだ!これに決めよう、ということで、理事長が更に友人数人に働きかけ、意見を聞いたところ、皆が皆賛同したのだった。 

ところが内容を詰めるにあたって、大学等の入学金がいくらなのか、毎年何人位にすれば良いのか、単年10人程度なら何年位持つのか、また、県内の大学等に絞らなければ、希望者殺到の事態にならないか等々議論は賑やかであった。

そこで、私がどう絞りをかけるか、県の教育委員会に行って、意見を聞いてみようと提案、理事長と二人で相談に行った。すると、相談を聞いてくれた管理部長は、即座に良い制度だから協力しますよと言う、また同席していた課長補佐が、参考だと断りながらも、県の奨学金制度の概要を説明してくれた。

その結果、次のようにすれば単年度10人程度は助成できるのではないかという結論に達した。以下がその内容である。

(1)県内所在の大学、専門学校等への入学者に絞る

(2)高校の学業成績を、或る程度以上とする

(3)家族の収入も一定の制限をかける

(4)進路を絞る

等であった。それに対して理事長は、長い病院勤務経験から看護師不足のため、入院待ち患者が多かったこと、また、これからは老人が増え続け、老人の生活を助ける家族以外の介護職員の不足が考えられること等で、頂戴出来る資金を社会に役立つよう活用するということを考えると、進路を看護や介護等、医療或は福祉関係の分野に絞ってみたい、ということを言うのであった。

これを受け、早速発起人会を立上げ、要綱作り等を行い、県教育委員会に相談すると、県立高校長会に働きかけるという心強い回答をしてくれた。また、私立の高校へは神奈川県私立中学高等学校協会へ要綱を持参し、協力を願うこととした。

更に、横浜市、川崎市、横須賀市三市教育委員会も訪問、説明を兼ねて協力要請をお願いした。これによって県内所在の高校への周知方については、大きな関門をクリヤ-できたのである。

また、この制度をキチンと長期間継続させ、社会的認知を得るため、当時制度として発足間もないNPO法人登録を考慮、神奈川県県民部に赴き、指導を受けつつ登録手続を行った。その際法人名として登録したのが「特定非営利活動法人フミヱ記念援助会」であり、その場で担当者から「素晴らしい内容の事業ですね。」と言われたことを記憶している。

 

さて、平成16年第一回の募集人員締切日、果して何人の応募があるか心配していたが、お陰さまで我々の予想通りの結果となった。理事長と私は条件の設定もピッタリだな、お互い良かったなと、握手したものであった。これも県教委の指導の賜物と感謝している。

この制度を活用した学生も、この10年で70人を超え、大学や専門学校を無事卒業し、夫々県内の福祉、医療の各分野へ就職し、立派な社会人として活躍しているとの報告を受けるとき、この制度を作って良かったなとの思いが募る今日である。

出資者のフミヱさんに感謝するとともに、今後とも櫻井理事長によるこの法人の運営に期待するところ大である。