奨学生①

H17年(第1回)・看護師・女性

 

 フミヱ記念援助会の皆様との面接で「看護師になりたいです」と言ったあの日から10年。あの時は「看護師になって、人の役にたちたい。信頼される看護師になりたい」という大きな目標を掲げていた自分が現在看護師7年目になり、時間の流れがとても速く感じられます。

 あの時の目標はもちろん今現在でも胸にとどめており、仕事に追われ、自分を見失いそうになった時は看護師を目指していた気持ちを思い出すようにしています。

 その当時は、まだ看護の仕事内容について何も理解していませんでしたが、「看護師になって、人の役にたちたい。信頼される看護師になりたい」という純粋な思いは今でも変わりません。

 就職して5年間、総合病院の外科病棟に勤務し、結婚を機に現在は内科医院の外来に勤めています。

 総合病院の外科病棟に勤めていた5年間は激務であり、自宅より病院に居る時間の方が長いほど仕事量が多く、毎日が疲れ果てていました。術前・術後の看護、人工呼吸器の管理、終末期患者さんへの関わり、化学療法患者さんへの指導等、毎日仕事に追われていたような気がします。それでも患者さんや家族から「ありがとう」「あなたがいてくれてよかった」という言葉に何度救われたかわかりません。その度に「やっていて良かった」「看護って楽しい」と辛さが喜びに変わっていきました。

 内科医院の外来勤務になってからは激務ではありませんが、忙しいのには変わりません。病棟とは異なり、慢性患者さんには月1回しか会えないため、会う時間が短い分患者さんの変化に気づけるよう日々努めています。また、月1回しか会えないからこそ、言葉かけや会った時の表情など、相手がこの医院に来てよかったと感じられるよう気を付けるようにしています。

 病棟と外来と働き方は異なりますが、看護師という仕事は、患者さんに育てていただいていると感じています。人と人とのつながりの強さや大切さを肌で実感し、患者さんや家族の思いに寄り添い、一緒に喜怒哀楽を経験した事で、自分自身が人間的に成長したように感じられます。こんな素晴らしい職業に出会えた事に喜びを感じ、そのチャンスを後押ししてくださったフミヱ記念援助会の皆様には感謝しています。まだまだ看護について学びたい事は尽きません。現在は高校生の頃の目標よりもより具体的になっていますが、これからも「看護師になって、人の役にたちたい。信頼される看護師になりたい」を根本に頑張っていきます。

 

  

入学金助成からこれまでの歩みを振り返って          H18年(第2回)・ケースワーカー・女性

 

  私がフミヱ記念援助会のことを知ったのは、高校三年生の時です。受験シーズンでもあり、たくさんのお知らせが黒板に並ぶ中、フミヱ記念援助会のお知らせを見つけました。当時私は家族が長期療養中であったということもあり、決して余裕のある家庭とは言えない状況でした。しかし私立の大学に進むことになり、少しでも学費の負担が軽くなればとの思いで申し込みをさせて頂いたのがきっかけでした。

  私にとってフミヱ記念援助会の面接試験は、まるで受験のように緊張した出来事でした。高校の先生にお願いしてご指導頂いた放課後の面接練習は、今でも懐かしく感じられます。無事に論文と面接を終え、入学助成金を頂ける運びとなりました。家族に嬉しい知らせを届けることができ、同時にホッとした気持ちを覚えています。

  高校を卒業し、大学の社会福祉学科に進学しました。当初は知的障がい分野の職に従事しようと志し、勉学に励みました。私の分岐点は大学二年生時の施設実習です。申し込んだ実習先に抽選で落選してしまい、急遽精神障がい者の作業所に行くことになりました。この実習が今の自分を生み出してくれたように思います。

  場所は横浜市中区寿町。日本三大ドヤ街と呼ばれるスラム街にその作業所はありました。そこの作業所で精神障がいということを隠しながら就職活動に励んでいるメンバーさんに出会いました。精神障がいに対して偏見のある社会であること、生きづらい世の中であることをメンバーさんは教えてくださいました。そして、私もその社会を作ってしまっている一員であることに気づかされました。この実習をきっかけに私は精神障がい分野の職に従事したいと新たな目標が生まれました。 

 その後無事に大学を卒業し、精神保健福祉士の国家資格も取得することができました。初めて勤務した職場は精神障がい者のグループホームです。精神障がいを持つ6名の入居者の方々が共同生活を営む場の世話人として働かせて頂きました。世話人とは言え、まだ大学を卒業したばかりの身でしたので、未熟な面が多々ありました。しかしそれをフォローして下さったのは、入居者の方々でした。共同生活のため、入居者間のトラブルもつきものです。その都度介入して解決に導くのが私の仕事だと思っていましたが、実際に解決していくのは入居者同士でした。障がいを持ちながらも、お互い支え合いながら生活していくことも立派な生き方だと学ばせて頂いた職場でした。 

 現在は精神科病院に異動となり、医療相談室のケースワーカーとして従事しています。電話による受診・入院相談はもちろんのこと、患者やご家族からの相談窓口、入退院調整、病院スタッフとの連携等、様々な業務に携わらせて頂いています。前の職場と業務内容も職場環境も大きく変わり、恥ずかしながら日々業務をこなすことに必死になっているのが正直なところです。しかし精神障がいのみに拘わらず、様々な分野のことを学ぶことができ、充実した毎日を送れているように感じています。 

 この度、フミヱ記念援助会入学金助成事業の10周年をきっかけに、これまでの自分の歩みを振り返ることができました。今でもフミヱ記念援助会が、当時の私のような学生の大きな支えとなっていることを嬉しく思うと同時に、心から感謝いたします。今後も自分の成長を報告できる場のひとつとして、フミヱ記念援助会がいつまでも続くことを願っております。

 

 

看護師という夢を叶えて                     H18年(第2回)・看護師・女性

 

  私は小さいころから、看護師になりたいという夢を持っていました。きっかけはよく覚えていませんが、どんな人にも笑顔で接している看護師に憧れ、私も役に立ちたい、笑顔で人に接することのできる看護師になりたいと思うようになっていました。その夢を叶えるため、高校では福祉について学び、施設実習で高齢者の方との関わりを通し、より一層看護師への憧れを強くしたのを覚えています。 

看護学校への進学を考えていた時、高校の担任より入学金助成について聞かされました。私の両親は、私の進路や夢を反対することなく全力で応援してくれていました。しかし、双子の妹も医療系への進学を決めていたこと、付属看護学校以外の学校への進学を希望していたため、経済的には両親に苦労をかけていたと思います。そのため入学金助成を受けました。助成を受けたおかげで、看護学校入学後、海外研修にも参加することができました。海外の医療現場を見学し、在宅医療の現状なども知ることができました。また海外の医療と日本の医療の違いを感じ、私が目指したい看護を考えるきっかけにもなりました。 

学生生活は楽しいことばかりではなく、人との関わりに悩むことやつらいこともありました。しかし、同じ夢を持った仲間が支えとなってくれたおかげで乗り越えることができ、小さいころからの夢であった看護師になることができました。 

 私が看護師として働き始めて5年がたちました。現在、県内の医療機関の乳幼児内科病棟に勤務しており、小さな子供たちに囲まれ、看護だけでなく保育も担いながら忙しい毎日を送っています。入院しているこどもたちの多くは、血液疾患で抗がん剤治療などを行っています。治療しながらもたくましく成長していく姿や、屈託のない笑顔、覚えたての言葉でたくさんおしゃべりをしてくれるこどもたちの姿が、私の元気の源になっています。 

しかし、長い治療生活を終え元気に帰っていくこどもたちばかりではありません。治療を頑張っても、治すためのいろいろな治療方法を行っても、病気に打ち勝つことができないこともあります。そのような現実に、看護師としてこどもたちの役に立つことができているのか、もっとしてあげられることがあったのではないかと悩むこともあります。日々自問自答しながらも、今も頑張っているこどもたちのために、今できる精一杯の看護をしたい、つらい毎日ではなく少しでも楽しいと思える笑顔のある毎日を過ごしてほしいという思いを持ち、看護師をつづけています。

 

 

 

H20年(第4回)・看護師・女性

 

 私は小学生の頃から、人の命と向き合う看護師という職業に憧れ、看護師を目指しました。 

 大学の看護学部へ入学し、幼い頃からの夢が現実に近づいてきたと希望でいっぱいでした。フミヱ記念援助会から助成を受けたのは大学入学の時でした。大学側からフミヱ記念援助会を紹介され、助成を受ける機会をいただきました。面接を受ける際とても緊張していたのですが、面接を担当して下さった皆さんが優しく話を聞いて下さり、安心した記憶があります。 

 学生時代は日々の講義、看護技術の練習、試験勉強、実習と忙しい4年間でしたが、同じ目標を持った同期の仲間たちと楽しく過ごすことができました。 

 大学卒業後は自宅から近い公立病院へ就職しました。配属は手術室でした。学生時代、実習で3回ほど手術室を見学する機会がありましたが、まさか手術室で働くことになるとは思ってもいなかったので正直不安でいっぱいでした。 

 私の職場では新人は器械出し業務から始めるため、最初は器械の名前や使い方を覚えたり、術式を勉強する毎日でした。 

 しかし1年間器械出し看護師として多くの患者さんと接し、様々な経験をすることができました。その中で、術前訪問や入室時に術前の患者さんと接する中で、患者さんが手術に対して不安や恐怖を抱えていることがよく理解できました。手術室で意識のある患者さんと接する時間は短く、器械出しとして自分ができる看護とは何だろうと考えることも多くありました。しかし、手術がスムーズに進行するよう器械出しをすることが、麻酔時間や患者さんへの侵襲を少なくすることに繋がり、それが患者さんへの安全・安楽な看護になるということを学ぶことができたと考えます。 

 そして2年目となり、外回り業務も入るようになりました。外回り看護師は、手術中、意識のない患者さんの代弁者とならなければなりません。手術開始前に安全・安楽な体位を調整したり、手術中の体温管理、全身状態の観察をしたり、そのためにはより広い視野や知識などを持つ必要があります。また、手術チーム全体のコーディネートを行い、円滑に手術が進むようリーダーシップを発揮しなければなりません。器械出し看護師としても今まで先輩の外回り看護を見てきましたが、実際に外回りに入ってみて、患者さんの個性に合わせた看護を提供することの難しさと重要性を改めて実感しています。 

 3年目となり、今も毎日器械出し看護師として、外回り看護師として勉強の毎日ですが、患者さんが安全・安楽に手術が受けられるように努力していきたいと思います。 

 そしてフミヱ記念援助会の皆さんの思いに応えられるよう、一人でも多くの患者さんのために自分のできる最大限の看護を提供していきたいです。 

 

  

H20年(第4回)・看護師・女性

  

 私が看護師になりたいと思い、進路を決めたのは高校生の時でした。人の役に立てる仕事をしたいという思いがあり、どのような職業があるのか探している中で、看護学校の説明会・体験学習に参加しました。実際に看護師・看護学生の方々と話ができる場が設けられ、話を聞いていく中で看護の奥深さを知り、私も看護師として人の役に立ちたいと思い、短大への進学を決めました。 

 短大に入学してからは専門的な学習、看護技術の演習が始まり、看護師に少しずつ近づいていく嬉しさがあった事を覚えています。3年生になってからは病院実習・国家試験があり、看護師になる事の大変さを強く実感すると同時に、早く看護師になりたいという思いも強くなりました。そして将来は、患者さんの思いを十分に傾聴しながら、患者さんのペースに合わせた関わりができる看護師になりたいと思いました。 

 学生生活も終え、卒業・国家試験の合格が決まった時には、一緒に頑張って支えてくれた家族・友人・先生方に感謝の思いでいっぱいでした。 

 看護師として総合病院に就職し、初めての事や分からない事がいっぱいで不安になった事や、学生の頃に想像していた理想と現実との違いにとまどいもありました。患者さんとの関わりに時間をかけたいと思っていても、業務にまだ慣れていない私は処置や治療・検査などに追われ、なかなか患者さんのペースに合わすことができません。こちらの都合で動かせてもらっている時には申し訳ない思いでいっぱいでしたが、患者さんの笑顔にはとても支えられてきました。 

 今年で私は看護師4年目となりますが、今までたくさんの患者さん・家族の方々に成長させて頂きました。治療を終え、元気になって無事に退院される患者さんを見るたびにとても嬉しくなり、看護師になって良かったと実感します。また、色々な思い・考えを聴いていく中で、その人なりの人生があり、看護に正解はないと感じました。医療者は、患者さんとその家族が納得できる、望んだ治療を受ける事ができるように支える事が必要だと思います。まだ経験も浅く今でも学ぶことがたくさんありますが、ひとつひとつの経験と、患者さんとの関わりの時間を大切にしていきたいと思います。看護師の仕事をしていると感謝される事が多いですが、私達も患者さんに成長させてもらっているという感謝の気持ちを忘れずにいきたいです。

 


新しい環境から学んだこと                   H20年(第4回)・理学療法士・女性

  

 私は、障害を負った方の生活が豊かになるように支援したい、患者さんが「やりたい」と思うものを再度できるだけ出来るようにしてあげたい、そんな気持ちに寄り添って、ともに成長できる存在でありたいと思い理学療法士を目指してきました。無事に国家試験も合格し、本来であれば理学療法士として勤務していたはずなのですが、学生時代に分かった持病のため勤務できずにいます。しかしどうしても医療の世界から離れることは考えられず、現在私は調剤薬局に医療事務として勤務しています。 

 薬局の中で働いていて思うのは、外来の患者さんの不安を取り除ける存在や環境は少ないということです。外来の方は、入院中や老人ホーム入所中の方のように常に医療従事者、特に看護師など話をしやすい存在がそばにいる状態ではないので、医療機関に来られた時だけしかその患者さんの不安を取り除くことができないということになります。同じ外来医療でも理学療法士は患者さんに触れ、会話をし、ある程度の治療時間が確保されています。患者さんの心に寄り添うということも大切ですが、その場で結果、変化を出すということも求められます。そういったことを総合して患者さんと信頼関係を築いていきます。 

 それに対し、薬局での対応は本当に短時間のみの交流なので、どのように対応することが患者さんにとって心地よいのかを考え、信頼を得ていくというのがとても大事であると感じます。 

 また、特に高齢者にとって、病院の先生というのは長い付き合いであっても話しにくいところがあるというのは否定できないと思います。しかし薬局はそんな高齢の方にとってもう少し身近な場所なのだろうと感じます。薬のことはもちろん、自分の病気のこと、家のこと、最近あったこと、いろんなことを話していかれます。 

 その中で、病院に行くほどでもないけど楽になる方法はないかという痛みの相談や、この病気はどんな症状が出るのかという質問をされていかれる方がいらっしゃいます。そういう方に対して私は症状の説明、そこから簡単なリハビリテーションや対処法、病院の紹介などを行っています。自分の手で患者さんを治療することは出来なくなってしまったけれど、気軽に相談をしてもらって少しでも患者さんの不安を取り除くお手伝いが出来ているのではないかと思います。またそういった雰囲気作りをしていくこともとても大事な業務だと感じています。 

 正直なところ、私は、もう理学療法士として患者さんに接することはないと思っていました。理学療法士になりたいと思って頑張ってきたことも、知識も技術も全て無駄になってしまったと思っていました。ですが、新しい世界で自分が理学療法士として学んだ一面を活用できる、無駄ではなかったと思うことができ、自分にもう一度自信を持つことができました。リハビリテーションを必要としている方のそばにいつもいられるというポジションではありませんが、今のように患者さんに声をかけられるのは理学療法士を目指してきた時間があるからだと今は思うことができます。 

 このように思うことが出来るのもフミヱ記念援助会を始め、家族、たくさんの方に支援していただいたからだと思います。支援していただいた方々に恥じることのないよう、精一杯仕事に取り組んでいきたいと思っています。 

 

 

入学助成金を受けて                       H20年(第4回)・社会福祉士・女性

  

 助成金を受ける当時は、これから大学生として福祉を学んでいくと共に、助成金を受けるには、成長しなくてはならないととても強い緊張感がありました。 

 福祉を目指すことを決めたのは妹の交通事故がきっかけでした。妹は足に大きな怪我を負いました。歩行は十分にできますが、大きな傷が足にも心にも残りました。しかし妹はリハビリを積み重ね、歩けるようになるまで頑張りました。妹が頑張ることができたのは、妹の周りにいた人々の力があるからだと思いました。その時、私も人とかかわる中で何かしたいと考え、そして福祉を学ぶことを決めました。 

 現在はある社会福祉法人に勤めています。主に障害をもった方々の支援員として毎日を過ごしています。1年目では「社会人」という緊張感が大きく、あっという間に過ぎてしましました。2年目では、障害を持つ方に接してはきましたが、常に、支援をしているという感覚ではなく、利用者の方に毎日支えられている事を感じました。妹の姿を見て、その周りにいた人のように、支えていく、何かする存在になりたいと感じていましたが、お互いがお互いを支えあっていることに気づくことができました。 

 現在3年目になり、日々障害者と関わるようになりました。障害を持つ方にとっての仕事とは何かを毎日考えています。 

 人に支えられ、人を支える仕事をしていることにとても感謝しています。これからも、自分自身が成長していきたいと思います。

 

 

アメグスト ~私の好きな場所~                 H21年(第5回)・支援相談員・男性

  

 どのような形でまとめようかと迷いましたが、勤める職場がどのようなところか、そして私の今後の目標のようなものをここに記載させていただければと思います。たくさんの人と関わる仕事をしたいと決めた当時の思いと、次の方向性を見失わないためにも…。 

 私が支援員として勤める施設、アメグストとは“私の好きな場所”という意味です。これまでに何度も新しい利用者がアメグストを訪れるたびに私はこの説明を施設紹介の初めに引用してきました。アメグストでは主に心の病などを持つ人々を中心に日中活動支援と相談支援を事業の柱として取り組んでいます。そしてアメグストにはいろんな利用者が訪れます。また、利用する理由は人によって様々です。決まった曜日の決まった時間に決まったプログラムを活発に行うほかの地域の活動とは少し様子の違うこの施設。また、作業所ともデイケアとも違うこの場所に彼らはなぜ通い続けるのか?僅か一年という短い期間の中でしたが、私は少しずつこの施設の必要性について考える機会とめぐり合うことができました。 

 アメグストの始まりは、地域の作業所がまだ社会資源として十分に広がっていなかった頃、心の病などをもつ人々の“たまり場”として開放されました。それから十年あまりの年月が経過し、私が勤めるようになりました。近年、地域には就労継続・移行といった事業所や病院のデイケア、僅かながらに作業所としての機能を現在も維持している施設と、障害者の通い先は横須賀市内だけでもかなりの数に増えています。 

 こうして社会環境が少しずつ変わると共に利用者の状況も変わり、多くの者は別の通い先を見つけ、移るようになりました。それでも今日までアメグストがあり続ける理由のひとつには“いつでも戻ってこられる安心感”があるからなのだろうと思います。いつ来ても良い“たまり場”としての自由さが残るからこそ、作業所帰りに立ち寄ったり、休みの日に顔を出してみたり。あるいは作業所通いの難しい人には唯一の居場所、地域との接点になる。ちょっとずつ通い慣れ、やがて習慣ができ、そこから新たな活動へ自分の可能性を広げていく。そしてまた気持ちが揺らいでしまうと、ちょっと一休みしようと戻ってくる。こうしたサイクルを繰り返しながら、利用者は自分らしい生活を少しずつ自ら作り出していく力を養うのではないかと私は考えています。 

 そんなアメグストも時代の流れにより、社会の求める在り方も変わってきていました。理想的な従来の“たまり場”と現実の要請である相談支援機能の強化との狭間にアメグストは揺れています。どちらか一方が良い悪いではなく、どちらも取り入れられる形で織り込めないだろうか。改めてアメグストの真価が問われる中、この問いに職員一人ひとりが試行錯誤で取り組んでいます。 

新参者の私でもきっとアメグストの役に立てることはあるはず。そう考え、私は自分の最も関心のあったボランティアを切り口に、活路を見出せないか、自分なりにできることから取り組み始めました。職員の視点から映るボランティアの活用はどのようなものなのか。継続的な活動を続けていただくにはどのような支援が必要なのか。ボランティアの可能性に魅せられた自分が、ボランティアの力を活用し、アメグストをより良い施設へ変えていくことができたらと考えています。 

 

 

看護師という仕事                         H21年(第5回)・看護師・女性

  

 2013年の4月より大学病院の看護師として働きはじめ、1年がたちました。今は新入職員を迎え、どぎまぎしている姿を見て、私も最初は場所に慣れず緊張の毎日だったということを思い出し、今の自分は少しだけ成長したのだと実感しました。この1年間本当にいろいろなことがありました。途中で、辞めたいなと思うこともありました。なぜならば、大学時代に思い描いていた看護師像と実際に働いている自分の姿に差があったからです。 

 学生時代の私は、看護師という仕事について、患者さんを支援し支えていく仕事であり、患者さんに何かをしてあげることが仕事であるとイメージしていました。しかし実際には、目まぐるしい業務回転の中で、なかなか患者さんとの会話の時間も作れず、ただ検温をして異常や変化がないかを見ていくだけの忙しい日々が続きました。 

最初はこなすだけで精一杯でしたが、少し慣れてきたときに、ふと学生の時に思い浮かべた看護師像を振り返ったことがありました。その看護師像に新たに臨床での経験が加わり、私の中で看護師とは患者さんを支えていくことに変わりはないが、その支えの中に何かもう少しプラスになることをしていきたい、していくことが看護である、と思い始めました。 

実際、1年たった今でも私の看護の思いはこれと変わりません。しかし、未経験の慣れない環境と、ミスをすることが許されない環境、その上で業務を時間通りにこなしていき患者さんの安全を図っていくということの忙しさの中で、私は自分の満足する看護ができずに一度大きな挫折を味わいました。師長や先輩看護師と面談や相談を重ねて何とか乗り越えることが出来たのですが、その時の私は、毎日「私が担当する日は、患者さんにとって何もない日になってしまうんだ。看護師としてやりたいと思うこともできない自分も嫌だ。もう少しじっくり患者さんとの時間を持つことが出来るところがあるのではないか、ここにいてはいけないんだ」と思いながら過ごしていました。今思うと、逃げていたのだと思いますが、その時はとにかくネガティブな考えばかりで、毎日が本当に辛く、きちんと考えるということが出来ない状態であったというのを記憶しています。 

そんな日々の中でも、私は少しでも自分の納得できる看護をしたいと強く思うようになり、忙しい業務の中で、無理にでも患者さんや家族と関わる時間を増やすようにしました。すると今度はしてはいけないミスをしてしまいました。忙しさのあまり、いつも行っている確認作業を怠ったことにより生じたミスでした。完全に立ち直りができていない最中の出来事で、私はさらに落ち込みました。本気で辞めようと覚悟した瞬間でした。 

しかし、その日に、先輩看護師となぜミスをしたのか振り返りをした時に、私の看護観について話す瞬間がありました。その時、最近の業務がことさら忙しくなった原因は、私が納得のいく看護をするため患者さんと関わる時間を割いたことが原因であり、たまたまその結果が悪かっただけであったこと。私が患者さんとの時間を増やそう、もっと何かをしてあげようと思ったことは看護師としてとても大切なことなのだ。私のしていることはれっきとした看護だったと気付くことが出来ました。 

 その日を境に、私は少し仕事が楽しいものになったような気がします。もちろんミスをしたことはいけない事であり、今も十分に反省し、二度とないように努めていますが、この出来事をきっかけに、私は看護師としてやっていけると思えるようになりました。患者さんに大切なことを教えてもらった気がします。 

 学生時代の私は、とにかく看護師になりたいという気持ちが先行していたのだと思います。実際に、援助金を受ける際にも、看護師になって患者さんを支えていきたいという思いばかりで、看護師という仕事の大変さを考えていなかったと思います。これまで私は患者さんに与えることが看護だと思っていましたが、今は患者さんに教えてもらいそれを返していくことも大切な看護の一つだということを学びました。学生時代のあの時フミヱ記念援助会の方々に助けていただかなければ、こんな素敵な学びができなかったのだと思うと、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。これからも私が助けてもらった分を倍にして、さまざまな人に返していく看護師、人でありたいと思います。 

 

 

H21年(第5回)・作業療法士・女性

 

 5年前の春、フミヱ記念援助会より入学助成金のご支援をいただき、中学生の頃より目指していた作業療法士になるため、リハビリテーションの専門学校に入学しました。専門学校での勉強は、机上での授業、実技練習、また、病院や施設での臨床実習など、自分が想像していた以上に学ぶことは多く、深く、そしてやりがいのあるものでした。

 専門学校3年の夏、病院での実習中に自分は作業療法士に向いていないのではないかという壁にぶつかり、夢を諦めかけたこともありました。そのとき支えてくれたのは、家族と実習先のバイザーの方々でした。「どんな苦しみも辛さも一緒に分け合おう、一緒に頑張ろう」と言ってくれた母には、それでもやりたくないと泣き、たくさんの迷惑をかけました。実習先のバイザーは、「自分が作業療法士に向いているかどうかなんて、今考えなくていい。ただ、目の前の患者さんには真っ向から向き合え」と、逃げ腰だった私の心に語りかけてきてくれました。長年目指してきた夢を諦めかけたこの時期があったからこそ、周りの方々の支えに気づき、今の私があるのだと心から感じます。

 そして平成25年の3月、念願の作業療法士の国家試験に無事合格し、4月より横浜市にある病院で働き始めました。今年の春で2年目となり感じることは、5年前から変わらず周りのたくさんの方々に支えられているということ。体調を気遣い、不器用な私をサポートし続けてくれる家族。夢の第一歩に向けて背中を押してくださったフミヱ記念援助会の皆様。臨床の技術だけでなく、社会人としての在り方を、時に優しく、時に厳しく教えてくださる職場の先輩方。喜怒哀楽を共にしてくれる友人たち。そして何より、まだまだ新米である私が病室を訪れるのを心待ちにしてくださり、私にたくさんの笑顔をくださる人生の大先輩の患者さんたち。

 患者さんの大切な一日一日に、作業療法士としてどう関わっていくべきか。患者さん一人一人が病気や怪我によって失ったものを取り戻すために何を行っていくべきか…。日々考え行動する毎日は、思うように進まないことや、悔しさ、不甲斐なさ、出逢いに伴う別れ…、たくさんのことがありますが、何よりも作業療法士という仕事が大好きであるというこの気持ちが、ぶれずに私の心の支えとなっています。

 作業療法士として、患者さんが私のリハビリのおかげでよくなったと思うのではなく、自分の力でここまで来られた!自分の頑張りが実を結んだ!と思っていただけるような、そのための手伝いができるようになることが今の私の目標です。新人時代から心がけている、挨拶、感謝、笑顔を忘れずに、これからも仕事に励んでいくつもりです。

 未来の日本を支えていくのは私たち若者であるという責任感を胸に、これからも日々精進していきたいと思います。